生誕 寛政6年(1794)
死没 明治3年(1870)
化月坊は、岩手旗本竹中家家臣国井泉蔵の長男として、寛政6年(1794)2月1日、岩手村に生まれる。本名は国井義睦、通称は喜忠太、幼名は六郎、原留子、坦斎などと号した。文化6年(1809)2月21日、召し出されて江戸詰めとなり、文政11年(1814)8月、御留守居役となり、天保3年(1832)8月、御用人役兼帯となる。同10年(1839)9月、御用人役御免となったが、安政5年(1858)6月、再度御用人役を仰せ付けられた。
化月坊は、江戸詰めの間に刀弓の術を、天心独明流の達人山本竹鳳に学び、若くしてその奥儀を極め、その道統を継承した。そのため、文政5年(1822)6月には領主より「芸術心掛出精之趣御褒詞」を賜わり、かつ加増米を受けた。天保13年(1842)9月、道場菁莪堂が開設されると、主命により「文武之師役」を仰せつけられ、柔剣槍弓の術を指南した。
化月坊は、学を好み書をよくし諸芸に秀いで、とりわけ晩年俳諧を研鑽し、安政4年(1857)5月10日、市ノ瀬村桑原右麦没後に、美濃派15世の道統を継承した。この時「誉の扇」1冊を著す。翌5年5月、芭蕉翁木像一躰時雨庵に奉納。万延元年(1860)3月、山中村常盤墓前に翁塚建立。文久2年(1862)5月、加賀温泉に吟行し「南越紀行句集」2巻を綴り、同年9月25日致仕し、隠居料として2石2人扶持を賜わる。翌日剃髪して梅仙と改め花月坊と号した。その外に春香園、山戸亭とも称した。翌3年8月には東濃、中津川、落合方面に吟行し「東濃紀行」1巻を綴る。この年古稀の祝に「若緑集」1冊を著す。慶応2年(1866)正月化月坊と改め「秋風塚集」1巻を綴り、同年3月20日大垣御坊において、大垣の大谷市郎右衛門(文寿坊其兆)に道統16世を譲った。その後、各地を吟行し「春香園集」3巻を遺した。
元治元年(1864)3月、岩手菩提の白山神社境内に芭蕉の句碑「此山の悲しさ告よところほり」を建立し、ついで明治3年(1870)6月、岩手下町の徳法寺境内に化月坊の句碑が建立された。句は「世は夢そ南無阿弥陀仏ほととぎす 喜叟化月坊」とあり、この年の12月17日に没した。行年77歳。禅幢寺に葬る。
各地に次の句碑がある。
花こヽろ覚して雲にほととぎす 安政6年4月敷原観音寺・京都永観堂
一二丁笠わすれたる清水かな 明治2年6月垂井本龍寺
一六夜やそろヽ山もこちらむき 梅谷即現寺
月のあと残した薮の梅白し 昭和45年1月岩手菁莪記念館
山深ふいもほる老や秋のかぜ 関ケ原瑞龍瑞龍寺
げに風の音もすみけりあきの松 関ケ原山中常盤塚
その幹に牛もかくれてさくら哉 関ケ原山中常盤塚
花に蝶我も机にねたさうな 岐阜北野獅子庵