生誕 -
死没 天正7年(1579)
半兵衛は竹中重元の子として天文13年(1544)大御堂(現大野町)で生まれたといわれる。重虎とも称した。永禄元年(1558)父と共に岩手弾正を襲ってこれを追放し、岩手に移り住んだ。幼少期より学を好み、もっぱら兵法の研究に励んだといい、成人して安藤伊賀守守就の娘を妻にし、父没後は斎藤龍興の下に属し、稲葉山城下に居館を置いた。
永禄7年(1564)2月、半兵衛は稲葉山城に人質となっていた弟久作の病気見舞いと称して家臣十数名を率いて登城し、城外に待機していた安藤守就の軍勢とともに、龍興を追放した。稲葉山城奪取の理由については、新年の饗宴の際、斎藤飛騨守が半兵衛を侮辱したためとも、龍興の家臣日根野備中守と舅である安藤守就が争い、これを救うためとも、城主龍興の愚行を戒めるためともいわれる。この後、半年ほどで城を退去した半兵衛は、栗原山などに閑居していたといわれ、永禄10年(1567)頃、織田信長に仕え、秀吉にこわれて与力の謀臣となった。その後、秀吉と共に、永禄11年(1568)9月、六角承禎の居城観音寺城奪取、箕作城攻撃、元亀元年(1570)4月、越前朝倉義景の手筒山城、金ケ崎攻撃、同年6月には姉川の戦いに出陣した。姉川の戦いに先立って浅井長政の重臣鎌刃城主堀次郎・樋口三郎兵衛を調略し、信長の近江攻略に功をあげた。姉川合戦後、半兵衛は秀吉と横山城を守り、数度の浅井・朝倉軍の襲撃を撃退した。元亀元年(1572)には、虎御前山在番を命じられた秀吉の先陣をつとめ、城の守りを固めて小谷城の浅井軍と対峙した。浅井氏滅亡後も長浜に居城した秀吉に付き行動をともにした。
天正5年(1577)、中国征伐を計画した信長は、秀吉を主将として派遣した。半兵衛もこれに従い、秀吉が播磨に入ると、黒田官兵衛がその先導役を務める。その後、半兵衛・官兵衛の2人は、秀吉の下で行動を共にするようになり、播磨の上月城、福岡野城攻撃で軍功をあげた。翌6年、信長の部将であった有岡城主荒木村重が、信長に離反すると、官兵衛は有岡城へ向かい説得を行うが幽閉されてしまう。官兵衛幽閉中、信長は謀反を疑うが、半兵衛は官兵衛を信じ、殺害の命のあった官兵衛の息子松寿丸(のちの黒田長政)を家臣の不破矢足邸に匿って養育した。翌年、官兵衛は救出されるが、その時、半兵衛はすでにこの世を去っていた。現在、不破矢足邸跡は五明稲荷社となっており、松寿丸が匿まわれた時に植えたといわれるイチョウの木が残っている。
天正6年(1578)、中国毛利攻めの拠点であった三木城別所氏が毛利方へ寝返り、秀吉によって三木城攻めが行われた。半兵衛は秀吉の補佐役として参戦、備前八幡山城主、明石影親の調略などに成功し、信長に銀子100両を与えられた。しかし、出陣中、身体の不調を覚えた半兵衛は、一時京都で休養していたが、再度平井の本陣に帰り、天正7年(1579)6月13日に没した。秀吉は限りなくかなしみ劉備が孔明を失ったようだと号泣したという。行年36歳、法号深龍水徹。